3.11

東日本大震災から8年が経過しました。

帰省するたびに、ふるさとは確実に復興への歩みを進めています。

震災の時、私の家族に起きた出来事を記録のために記しておきます。長文なのでめんどくさくなったら途中でやめてください(^^)笑


私の実家は福島県のいわき市にあります。震災当時は両親が健在でしたが、
今はそこに母が一人で暮らしています。
実家は津波に巻き込まれることもなく、家は少し壊れましたが家族も皆無事でした。

震災の時、私は職場のテレビで故郷の浜辺が波にのまれていく様子を呆然と見ていました。
当時福島には両親のほかに、弟家族と義兄が住んでいましたが、電話が全く通じず
家族の無事を確認できたのは夜の8時でした。
みんなの無事を確認できて、私の中で震災の実感が少し薄れました。
12日の昼頃、弟から栃木に来ていると電話があり、こんな時に家族旅行でもしているのかとあきれましたが、弟は震災の晩に家族を連れて自主避難を始めていました。
 初めて福島で大変なことが起きているのだと実感しました。
弟は、実家の両親も連れて行こうと誘ったが断られたこと、奥さんの親族のところにお世話になることができたが、子供(当時まだ2歳と4歳)を連れていているので長居は出来ないと連絡してきました。
私は東京に住んでいる姉のところで弟家族を引き受けてもらい、弟と両親を迎えに行くことにしました。
3/15の夕方に水をたくさん積んでいわきに向かいました。(酒屋の社長さんが詰めるだけ積んで行ってと水を提供して下さいました)
ゴーストタウンのように静まり返ったいわきは、停電のため真っ暗で道路はいたるところで、陥没したり寸断されていてとても怖かったのですがその時は、両親をここから早く非難させなくては。という思いだけで車を走らせました。やっとの思いで実家にたどりついたのに
両親はここにいると言い張り何も支度をしていませんでした。
とりあえず支度をするように説得をして、弟と私は一番近くの体育館が避難所になっていると思い込み、持ってきた水を届けに行きました。体育館に近づいても周りは静まり返っていて様子がおかしいなと思ったら
そこは津波で亡くなった方の遺体安置所になっていました。
それから本当の避難所を探し水を届け、実家に戻って両親を連れて、来た道を引き返し姉の家に両親と弟をおろしました。
姉の家はすでに定員オーバーでしたので、私は当時大学生だった息子が住んでいた千葉のアパートに向かいそこでようやくほっとしたのを覚えています。
朝の4時ごろだったと思います。仮眠をとって息子の家の片づけをし、その部屋は春休みで使っていなかったのでそこで弟家族がしばらく過ごせるように整えました。
弟家族は千葉で4月の初めまで過ごし、そのあと私の家や裾野、横浜など転々と自主避難を続け、福島には戻らないという決断をしました。
弟は長男で子供が小学校生になるタイミングで家を新築し両親と同居することになっていましたが、孫と暮らすことを楽しみにしていた両親の夢はかないませんでした。
両親も、東京や静岡でひと月ほど過ごし、自分だけ安全なところにいるのがご近所の手前申し訳ないと、水道が使えるようになるのを待って帰っていきました。
このひと月の間にはいろいろなことがありました、不慣れな都会での暮らしに父が倒れたり、弟の家を探しまわったり引っ越しをしたり、普段はお盆とお正月ぐらいしか会わなかったのに震災で家族の絆を感じることができたのは唯一ありがたいことだと思いました。
津波で家が流されることもなく、家族が全員無事でいられる私の家族にも震災や原発事故でいろいろなことが起きました。
義兄は東電社員で、水蒸気爆発でケガをしました。弟は転職をしました。
本来なら今頃孫に囲まれて暮らしているはずの母がひとりで福島にいることも、弟が子供を守るために決めたことなので私は弟を責めることができません。
こんなふうに、震災や原発事故で人生の計画が変わってしまった方は大勢いらっしゃると思います。
あの時おむつをしていた弟の下の子は3年生になり、弟は岡崎に家を建てました。

震災ではたくさんの人が亡くなっていますので、命があり家族が助け合って今を過ごせることはとても幸せなことです。
8年の月日が流れても被災地に寄り添い、ご支援下さる方々もいます。改めて心からお礼を申し上げます。ありがとうございます

あの震災以降も、全国様々な場所で大きな災害がたくさん起きています。
まだ復興途中の場所も、被害に苦しんでおられる方もいらっしゃるでしょう。

命があればいつだってどこでだって、立ち上がれる。前にしか道はない。

もう、3/11を悲しい思い出の日だけにしたくないと思う8年目の3.11がもうすぐやってきます。